「昭和」から「平成」へ、 そして「令和」へ

今年は10連休というゴールデンウィークでしたが、皆様いかがおすごしでしょうか。平素は大変お世話になりありがとうございます。今年は4月30日に平成の天皇が退位され、5月1日に皇太子様が新天皇に即位され、「平成」から「令和」へ、新しい時代がスタートしました。思い出しますのは1989年1月、昭和天皇が崩御され、平成の時代がスタートしたときのことです。今回はその当時のことを思い出しながら、昭和天皇や明仁上皇のことに思いをはせながら、印象に残っておりますことをご紹介させていただきます。

 

「昭和」から「平成」へ、そして「令和」へ 

1989年1月7日、昭和天皇が崩御されました。私が25歳の時でした。会社が休みになり、仕事もしてはいけないと言われ、当時1人暮らしをしていた大阪のマンションでずっとテレビをみていました。テレビでは昭和天皇がどのようなことをしてこられたのかということをずっとやっていたと思います。私は恥ずかしながらその時まで、天皇がどのような人でどのようなことをやってこられたのか全く知りませんでした。当時テレビでやっていた内容は次のようなものであったと思います。

 

・ポツダム宣言を受諾して終戦をうけいれるか否かについて、天皇の御前会議にて長時間議論されたが結論がでなかったため、天皇の御聖断を仰ぐこととなりました。昭和天皇がポツダム宣言受諾の意思を表明し、8月15日に玉音放送を行われました。陸軍大臣等、最後まで降伏に対して否定的なメンバーもいましたが,天皇は次のように言われたといわれています。「国民が玉砕して君国に殉ぜんとする心持もよくわかるが、しかし、私自身はいかになろうとも、私は国民の生命を助けたいと思う。」

そして、マッカーサーにも会いにいかれて、私自身はどうなってもかまわない、諸国の採決に委ねる、ただ、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい、と話をされました。自分自身の命乞いにこられたと思っていたマッカーサーは驚いたといいます。かつて、戦い敗れた国の元首で、このような言葉を述べられたことは、世界の歴史にも前例がなかったからです。

 

・その後、昭和天皇は、戦後の復興と、国民を励ますために全国巡幸を決意され、行われます。その際、宮内官等を集めて次のように話をされたと言われています。

「退位も考えたが、全国をくまなく歩いて、国民を慰め、励まし、また復興のために勇気を与えることが自分の責任。宮内官たちは、私の健康を心配するだろが、自分はどんなことがあってもやりぬくつもりである。宮内官はその志を達するよう、全力を挙げて計画し実行してほしい。」

 

 

明仁上皇は11歳の時、父親である昭和天皇の玉音放送を聞かれ、終戦をむかえられました。昭和天皇の意思を継がれ、皇太子時代から太平洋戦争の激戦地である沖縄訪問を重ねられました。

長崎県の雲仙普賢岳噴火の際には、床に膝をついて避難民を見舞われました。床に膝をついて被災者と直接話をされるスタイルは明仁上皇が皇太子時代にはじめられたことであり、それまでは天皇が国民の前で膝をついて直接話をされることなどありえなかったそうです。

阪神淡路大震災では、地震発生から2週間後に現地入りされ、スリッパもはかずに避難所の床に正座して被災者の話に聞き入られました。「今は苦しいかもしれませんがいつかきっと幸福が訪れます。がんばってください」と被災者を励まされました。陛下の言葉に涙を流された被災者の方もいらっしゃったということです。東日本大震災のときもそうでした。

明仁上皇もまた、「国と国民のために尽くすことが天皇のつとめである」ということをいつも口にされ、災害があれば現地におもむかれ被災者の方々、国民を励まし、勇気づけ続けてこられました。今回もテレビでやっていたとおりですね。

 

 

いろいろなエピソードを書き出せばきりがないのですが、このような天皇がそれぞれの時代とともに我々日本国民の象徴として責務をはたしてこられたことにふれ、改めて日本という国の国民であることを誇りに思います。と同時に、いろいろな問題、課題はあるかもしれませんが、今日の平和で、自由で、豊かで、恵まれた日本という国で生活し、仕事ができますことに感謝せずにはおられません。

こうしたことに応えられますよう、また新しい「令和」という時代が素晴らしい時代であり続けられますよう、そのことを祈念して自分自身も精進しようと思う今日この頃でした。

 

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