皆様旧年中は大変お世話になりました。
心より御礼申し上げます。今年一年が皆様にとって素晴らしい一年でありますように。
今年一年どうかよろしくお願いいたします。
二宮金次郎として親しまれている二宮尊徳は、「積小為大」などの言葉で有名な江戸時代の「再建の神様」です。
多くの人がもつ尊徳のイメージは、小学校にあった銅像から、「やりたいことを我慢して、勤勉実直、質素倹約」というイメージが強いのではないかと思いますが、本書では「尊徳は、禁欲主義を否定した人」として紹介されていたのが印象的でした。
本書では、二宮尊徳の思想を、人間の欲を認め、まわりと調和させながら、心も金も、同時に豊かにする実学であった、と紹介されています。
大自然から実地につかみとられた尊徳の思想は、徹底した合理主義と積極精神で、増産計画をたて、人心を収攬し、次々に藩や郡村を再建していく過程で、実生活に根ざして確立されていったとされています。
以下本書の「商売のこつ」から印象に残りましたところを紹介させていただきます。
空腹の時、よその家に行って「どうか飯を恵んでください。庭を掃きますから」と言っても、おそらく、決して飯を食べさせてはくれないだろう。
それより空腹をがまんして、まず庭を掃けば、あるいは一飯にありつけるかもしれない。
これが「己を捨て人にしたがう」というやり方だ。
私が若いころ、一枚きりの鍬がこわれてしまったことがあった。
そこで隣家に行って「鍬を貸してください」と頼んだところ、隣家のおじさんは「今この畑を耕して菜を蒔こうとしているところだ。
蒔いてしまってからなら貸してあげる」と言った。
私は自分の家に帰っても鍬なしではどうせ何もできないので、「この畑を耕してあげましょう」と耕したうえに菜を蒔いてあげて、そのあとで鍬を借りたことがあった。
するとそのおじさんは「鍬だけでなく、何でも困ったことがあったら遠慮なく言ってきなさい。」と言ってくれた。こういうふうにすれば何事もうまくいくものだ。
年がまだ壮年だったら、毎晩寝るひまをさいて、わらじを一足でも二足でもつくって、翌日開墾場へ持っていき、わらじの切れた人にあげなさい。
もらった人が礼を言わなくとも、どうせ寝る時間につくったものだから損はない。
もし礼を言う人がいればそれだけの徳というものだ。
また一銭でも五厘でもくれる人がいれば、それこそ利益となる。
この道理を覚えておいて毎日怠らずに勤めれば、志の達しないはずはなく、何事もできないことはない。
世の中の人が捨てないものでも、なきものとして利用していないものがたいへん多く、数えきれないほどあります。
第一に荒れ地、第二に借金の雑費と暇つぶし、第三に金持ちの意味のないぜいたく、第四に、やろうと思えばできるのになまけていることなどです。
世の中には、このように捨てているのではないが、要らなくなり無に属するものがいくらでもあるでしょう。
それらをよく拾い集めて、国家を興す資本とすれば、あまねく人々を救ってもなお余りがあるほどでしょう。
人が捨てないもので、なきものとしているものを拾い集めて活用するというやり方は、私が今日あるゆえんです。
このことをよく心掛けて、人の捨てざるなき物を見出して拾い集め、世を救うようにしたいものですね。
将来のことを考えて行動するものは富み、目先のことばかり考えて、ゆきあたりばったりでやる者は貧乏することになる。
将来のことを考えている者は百年後のために松や杉の苗を植える。
まして春植えて秋に実るものを植えるのだから、なおさら富有となるのだ。
目先のことしか考えない者は、春植えて秋実るものさえも先が遠いといって面倒がり植えようとしない。
ただ目先の利益のみにかかわって、蒔かないで取り、植えないで刈ることばかりをねらおうとする。
蒔かないで取り、植えもしないで刈るような者は、一見利があるように見えるが、一度取ればもうおしまいで、二度刈ることはできない。
蒔いて取り、植えて刈る者は、毎年毎年つきることがない。だからこれを「無尽蔵」という。
今年がまた皆さまにとって大いなる希望であふれる一年となりますように。
参考文献 「二宮翁夜話」 編著者 村松敬司 (日本経営合理化協会出版局)